仮面の告白、金格寺法場の海道 の昭和を生き分断の頂点に登り詰めた男 三島行を。その作品は国内外で高く評価さ れ、ノーベル文学省の有力候補として いく度もその名さやかれました。しかし あなたは知っていますか?戦後日本を代表 するこの偉大な作家が新しい事故の確率を 果たせず配線と共に失われた日本という国 の精神を探し求め叫び続けた末に託した通 な思いを。 皆さんこんにちは。大人の国語便へよう こそ。運営者の上野の愛です。今日は たくさんの方にリクエストをいいており ました三島幸夫の障害についてお話をして いきたいと思います。え、今年2025年 は、え、三島幸夫の生誕100年にあたる メモリアルイヤーだったんですけれども、 だからね、あの、本当にたくさんのあの、 書店で三島雪夫コーナーというものを、ま 、私は目にしたんですけれどもね、ま、 同時にあの昭和のね、え、年合に換算する とちょうど100年にあたる昭和100年 にあたる年だっていうことで、ま、そう いったことでね、あの、私も含め、え、 昭和生まれの視聴者の皆さん、え、非常に 考え深え、思いがあったんじゃないかなと 思うんですが、昭和2焦点を当てたうん、 いろんなメディア各種のテレビの ドキュメンタリーであったりだとか、それ こそあの書籍もそうですよね。新聞記事も そうですし、様々なあのところでうん、 終戦80年っていうのもあって、昭和と いう時代に焦点が当たった1年だったん じゃないかなと思います。三島幸夫は大正 14年の生まれなんですけれども、大正 15年が昭和元年に当たるので、え、三島 幸夫の満年齢と昭和の年数っていうのが ちょうど同じになるんですね。ですので 三島幸夫は昭和20年20十歳の時に終戦 を迎えて昭和45年、45歳で、え、この 世を去ります。ま、そういったね、あの、 数字上の不思議な一致も含め、ま、 もちろんそれ以上にね、あの、彼が残した 作品ですとか、あと政治的な発言諸々ろ 含めてね、本当に昭和を象徴する、え、 作家。そして、え、三島幸夫はノーベル賞 にもね、何度もあの候補に上がっていた、 え、国際的なね、評価も非常に高い作家だ ということで皆さんのね、ご興味ご関心 あの高かったんじゃないかなと思うんです けれども、もうね、本当この三島幸夫って いう作家はいろんな人が語りたくなる作家 なんですよね。あの、圧倒的にね、三島の 動画が多い気がします。YouTubeの あの動画を検索してみても創石だとか大外 だとかアクタ川とかの日にならないくらい ね、あの三島雪の動画っていうのは たくさん上がっているんですね。やっぱり それは三島の政治的な活動あるいは最後の 迎え方ですよね。それがあの大きいのかな という風には思うんですけれども、あの私 はね、あんまり普段ね、あの自分の希望と してはこのチャンネルでは政治的な話をし たくないっていうのがあの思いとしては あるんですね。さね、さすがに三島幸夫の 障害を語る上でちょっとそういうね、あの 、政治的な話を完全にしないっていうこと も、ま、難しいというか、かって不自然な のかなと思って、ま、ちょっとね、今日は あの、そういった普段私が進んでお話しし ないようなことについても、ま、私が思っ ていること、三島幸夫のあの、障害をね、 え、調べてみて、え、思ったことがあるの で、ま、そういったお話もね、少しはさせ ていただこうかなと思っています。だから ちょっとね、緊張しているんですけれども 、ま、でもね、あの、あくまでもやっぱり 、あの、お気持ちはね、三島幸きの作家と しての障害、え、文として残した作品に、 ま、焦点を当てたいっていう気持ちが、 あの、もちろん第一ですので、ま、皆さん にもね、え、それを見ていただいた上で またコメント欄でね、いろんなご意見 いただけたらなと思っています。ま、今日 も京都で長丁場になると思うんですけれど も、私のこの文の障害シリーズを楽しみに してくださってる方はそこはね、もう諦め てくださってるんじゃないかなと思うので 、あの、もう存分ね、え、三島雪を今日は 語り尽くしたいと思いますので、え、是非 よかったら最後までお付き合いください。 というわけで、今日の動画を最後までご覧 いただくと、三島幸夫の障害、え、そして 三島幸夫の代表作。本編終了後の補足解説 では三島幸夫の自決の同機を私なりに 深掘りし、最後に関連書籍のご紹介をし たいと思っています。大人にとって国語は 疲れた心の処法戦。圧倒的分際と感性で 時代に挑み続けた昭和最大の文合。三島 幸夫の生涯から心豊かに生きていく
エッセンスを一緒に学んでいきましょう。 三島幸夫は大正14年成暦1925年1月 14日東京市役区の東京都新宿区谷に 生まれました。本名は平岡君た。父のあず は東京帝国大学法学部を卒業し、農林省に 務める官僚。母の静は改正中学校の校長を 務めた覇造の事女。自らを根っかの文学症 というほど文学に深い関心を抱く女性でし た。翌年 12月25日大正天皇が放し、時代は昭和 へと移ります。昭和3年には妹み子、昭和 5年には弟が生まれましたが、長男である 君たの生活環境は極めて風代わりなもの でした。一家は祖父母と同居していました が、祖母夏が君たを養育することを強く 望み、両親の元から引き離して自分のそば に置くようになったのです。夏は感情の 寄福が激しく、誰も彼女の意思に逆らう ことはできませんでした。こうして君たは 祖母夏の元で生活することになります。母 が君たに接することを許されたのは準の 時間のみでした。さらに夏は重い座骨神経 を患らっていたため、音や振動を極端に 嫌いました。君たは音の出る遊びや激しい 動きを厳しく制限され、外で走り回ること も声を上げてはしゃぐことも許されず、 遊び相手も祖母が選んだ近所の年上の 女の子たちに限られていたのです。ある日 君たがリ下の兵の隙間を覗いているのを見 た父あずが同じ場所から外を覗いてみると そこには野球に教ている君たと同年代の 少年たちの姿がありました。無邪気に遊ぶ 少年たちを遠くに眺めながら静かに室内で 過ごす日々。しかしこの閉ざされた幼少期 は君だけの感性を育む上で大きな役割を 果たしました。昭和6年学習員初に入学。 当時の学習員は平民の家のこの入学は特別 な援呼がなければ叶わなかったのですが君 たの入学には祖母の夏が家族につる家計の 出身であったことが深く関係していると 考えられています。そんな夏の愛読書は泉 教会や谷崎純一郎。君たは祖母夏の目を 盗むようにして彼らの単美的な作品に触れ ていきました。自由の少ない生活の中で 小説は君たにとって大きな心の支えでした 。そして現実を離れ、別の世界へと身を 委ねるための入り口でもありました。母静 もまた限られた時間の中で絵本を読み聞か せ、君たの想像力を静かに育んでいたの です。 ふ郎、あなたは森の女王です。 これは初頭家に入学したばかりの君たがふ という台で書いた作文の冒頭です。同級生 の作文は実際に見たふの姿や図鑑の説明を もに書かれた的な内容でしたが君たはすに 物語を紡いでいました。弱な体質と青白い 顔から青というあだ名で呼ばれていた少年 平岡君たはこうして言葉の世界に のめり込んでいきます。昭和12年学習員 初島家を卒業し、中東家に進学。これ気に 君たは祖母の元を離れしていた両親妹や弟 と共に生活することになりました。別居に よって生じた距離を埋めようとするかの ようにこの頃から祖母の夏は君たを歌舞伎 へ連れていくようになります。中心暮らや 肝心長といった時代物を通して君たは日本 の伝統芸能が持つ様子と精神性に見せられ ていったのです。昭和14年1月18日 君たを抑圧した存在であると同時にその 内面世界を深く耕した人物祖母の平岡ナは 海洋出血のため62歳でその障害を閉じ ました。 初頭家時代から市の捜索に強い関心を抱い ていた君たですが、中東に進学後、本格的 に文学を心すようになりました。当時君た は日本の伝統的な美神性への怪奇を歌う 日本ローマ派に強い影響を受けていました 。そんな君たの才能を見い出したのは学習 員中東化で国文法と作文の授業を担当して いた清水文男夫清水自身もローマ派の文人 の1人として昭和13年にハ田全命らと共 に雑誌文芸文化を相関していました。君た が書いた小説を読んだ清水は君たの作品を 文芸文化に掲載すべきだと考えます。伊豆 の主寺で行われた編集会議に現稿を 持ち込みました。松田前名をはめとする 同人たちも君たの才能に驚き、その場で 連載が決まりました。しかしここで1つ 問題が持ち上がります。平岡君たという 本名で作品を発表することに清水もハ田も 南色を示したのです。1つはまず君た自身 がまだ中東化の学生であったということ。 特に清水は君たの父、あずが君たの文学的 活動に大反対していることを懸念してい ました。 脳水晶の官僚であったあずは息子にも自分 と同じ官僚としての道を叶うならば当時 花形と言われた大倉への入勝を強く望んで いたのです。決して学校での勉強をおろか にしていたわけではなかったのですが捜作
活動にのめり込んでいく君たが許せず あずさが怒鳴り散らしながら現稿を 破り捨てたこともありました。そしてもう 1つはこの文芸文化が作者の個性よりも 日本の歴史や文化の再発見に重点を置いて いたこと。万容州の読み人知らずのような 赴きを尊重したいというハ田前名の一向が ありました。当初は本名で作品を発表する ことを望んでいた君たでしたが清水の説得 を受けペンネームの使用を承諾。この編集 会議が行われた伊豆への道中一道が静岡県 の三島を経由してきたことそして車窓から 富士山の雪が見えたこと正岡の没後その 精神を受け継ぎ万葉風人の代表的存在で あった伊藤さ王のような名前を君たが望ん でいたことから三島幸夫という名前に 決まりました。定昭和16年9月後から 12月後にかけて雑誌文芸文化で花盛りの 森が連載されました。主人公は自らの地に 刻まれた先祖の姿に強く引かれ現実の時間 を超えて中世の原影に見せられていきます 。美は死によって完成する。三島文学の 根底にある観念がすに色濃く映し出されて いました。そして現実の世界もまた死の 気配をまとった大きな歴史の渦へと 巻き込まれていきます。花盛りの森最終回 が掲載された昭和16年成暦1941年 12月日本軍が新珠を攻撃し太平洋戦争が 勃発しました。 昭和17年4月、学習員高等家文化を 剣類いに入学所家時代は居弱体質のためか 給油たちに過論られていたところもあり ましたが成長するにつれ体は丈夫になり 学業においては他の追随を許さないほど 優秀で一目置かれる存在になっていました 。卒業式には昭和天皇が隣し、銀度系を 排除。東京帝国大学法学部法律学科に入学 します。文学を強く心志しながら法学部に 進学したのは父、あずさの移行に従った ためでした。この年三島は処女作となる種 花盛りの森を出版します。戦下は次第に 激しくなり、紙の手配も難しいような状況 でした。それでもなんとか出版に こぎつけることができた背景には父あずさ の尽力があったとされています。いずれ 息子も証集され戦死してしまうかもしれ ない。それならば、あれほど息子から 遠ざけたいと思った文学ではあるけれど、 息子の生きた証として作品を残してやり たい。そんな親心だったのでしょう。 花盛りの森は4000部が1週間で全て 売り切れ、当時学生だった悪田川浩や吉本 高明もこれを読み学習員に現れた装熟な 天才の存在に大きな衝撃を受けたと言い ます。そして翌年 2月、前月に20十歳の誕生日を迎えた 三島の元にもついに少集令嬢が届きました 。風で寝込んでいた母のしは髪を振り乱し て泣き崩れ、父あずさも少なからず同揺し ていました。遺言をしたため違を用意した 三島が父と向かったのは兵庫県。入退検査 はもちろん居住地である東京で受けること もできたのですが、本石地が祖父の出身地 である兵庫県だったため兵庫で受けること にしたのです。それには父、あずさの こんな思惑がありました。当時の三島の 対格は非常に小柄で細く金骨たましい男子 の多い田舎で検査を受ければ費用が目立っ て不合格になるのではないか。実際米原を 持ち上げる体力測定でも脳村の青年たちが 軽がると頭の上まで持ち上げる中、三島は 胸の高さまでしかあげることができません でした。そしてその日母から映された風を こじらせていた三島。両親の必要な願いが 天に届いたのか、新マの軍意の誤心により 結末期症状である配信と診断され、即日 気境が命じられたのです。こうして少集を 逃れ、東京に戻ると三島は金労員に応じる 傍原執筆に打ち込みました。25歳の若さ で戦士した室町幕府旧大将軍足川義久を 書いた中世。海で出会った不思議な少女と 青年の失踪を主題に据えたみ咲にて物語。 三島はこれらの作品を作のつもりで書いた と言います。地に赴かずともやがてこの 戦争が自分の命を終わらせることになる。 そう思っていたのです。その後、東京は大 規模な空を受けますが、幸いなことに三島 と家族は戦下を逃れ8月東京で終戦を迎え ました。 終戦後、三島の心は大きな悲しみに 打ちひがれました。10月、妹のみ子が この世を去ったのです。三島は妹の死に ついて次のように述べています。日本の 敗線は私にとってあんまり通じ時では なかった。それより数ヶ月後妹が休止した 事件の方がよほど通じである。私は妹を 愛していた。不思議なくらい愛していた。 事実みつ子は家族の誰からも愛されている 娘でした。ただ1人の女の子であったため 両親はもちろんのこと両家の祖母からも
出来されまた年下の従子たちからも非常に 慕われていたのです。 精神女子学院に通っていたみ子は終戦後 学校の焼跡を片付けていた時に井戸水を 飲み超知にかかってしまいました。大学の 試験期間中だった三島は病室にノートを 持ち込んで必死に完をしますが、その会い もなくもろとする意識の中でみ子は お兄ちゃまありがとうという言葉を残し 17歳の障害を終えて旅立ってしまったの です。普段はお天場でわがままなところも ありましたが、兄を心から敬愛し、三島が 父のあずさから文学活動を反対されている ことにも深く同場するなど三島の掛けがえ のない理解者でした。父からは官僚の道に 進むことを望まれ、学校でも優等生として の振る舞いが期待される中で、み子の存在 は三島にとって何よりの癒しでした。 明るく改活で誰にでも愛された平岡の太陽 。み子の存在と死はその後の三島の捜索 活動や恋愛、結婚に大きな影響を及ぼし ました。 み子の市からなくして三島はもう1つ 大きな喪失を経験します。戦事中から交際 していた女性が他の男性と婚約したのです 。その女性の名は三谷国子。学習員初時代 からの親友三谷誠の妹です。三谷家として は国子と三島の結婚に依存はなく三島の 気持ちさえ固まれば筒がなく婚約という 運びになるはずでした。しかし三島は瞬々 します。どうしても小説家になるという夢 を捨てきれずかと言って小説1本で整形を 立てていく自信もなく学業と捜索を天秤に かけているような状況で一家を構える覚悟 を持つことができない。そして何より自身 の性的思考が大きな足かとなっていました 。この頃の三島は女性よりも男性に性的に 惹かれてしまう自分をはっきりと自覚して いたのです。父の海外土産の合習で見た グイドレーニのせいセバスチャンの絵に 感じた異常な興奮を女性に対して抱くこと ができない自分に三島は激しく戸惑い絶望 していました。こうした葛藤からク子との 結婚に踏みきれず結局彼女は他の男性と 結婚してしまいました。妹の死とこの女性 の結婚と2つの事件が私の意の文学的情熱 を推進する力になったように思われる。 三島は2つの大きな喪失によってボロボロ になった心を修復するかのように創作に 打ち込んでいったのです。 終戦の翌年昭和21年1月21歳になった 三島は短編中世とタバコの現行を手に鎌倉 に向かいます。当時分断の第1任者として の地位を確立していた川端安成なりに会う ためでした。川端が花盛りの森と中世を 読んで高く評価していたことを知り、知人 の紹介を受けて面会することが叶ったの です。三島は焦っていました。日本古来の 美伝統をじる日本ローマ派は敗戦と共に 人々から忘れ去られ角に装飾された分隊で 書かれた三島の作品は時代遅れだと出版社 に現稿を持ち込んでも全く相手にされませ ん。父の言うように役人になるより他に道 がないとまで思い詰めていた三島ですが そこに一筋の光が差し込みます。三島の 現稿を読んだ川端成がタバコを自身が幹部 を務める雑誌人間に掲載するように推薦し てくれたのです。編集庁の木村徳造も三島 の作品を読み圧倒されるほどの素失を感じ ていました。こうして昭和21年7月 タバコは雑誌人間に掲載されます。残念 ながら評価はそれほどカばしいものでは ありませんでしたが、川端は三島の才能を 疑わず、その後も発表の機会を与え続け、 それだけではありません。新味になって 三島の作品を遂行指導し、初めての長編 盗賊には女分まで書いてくれました。 ようやく開けたかに思われた文学への道。 この時期三島は衝撃的な知らせを受けてい ます。学習員中東に在学中の三島の才能を 見抜き絶賛した文芸文化の同人ハ田前明が 前年終戦直後の8月19日にマレ半島で 自ら命を立っていたというのです。昭和 18年に証集令嬢を受けたハ田は三島に 日本の後のことをお前に託したと言い残し 出しました。陸軍注意として南方各地を 転線し、女ホールバルで終戦を迎えたハ田 は昭和天皇の玉音放送を聞いた場官が戦争 責任が天皇にあるとして誹謗中傷する事を 行ったことに激行。観を射した後自らも ピストル自殺を遂げていたことが分かり ました。 終戦より妹の死の方がはるかに通行時だと 言っていた三島ですが後にこれは真実では なかったと打ち明けています。敗戦は三島 にとって最愛の妹の死と同じくらい大きな 喪失をもたらした出来事でした。特にこの ハ田の壮絶な最後は高年の三島の政治活動 に大きな影響を与えたと思われます。戦前 の軍主義を歴史のお点であるかのように
捉え、敗線を気に新しく生まれ変わろうと する日本のあり方に三島は激しい嫌悪感を 抱くようになります。戦争によって自らの 命は終わると信じていたのにそうはならず 生き延びている自分を許せないという思い もありました。この時期の自身の心境を回 し、三島は次のように述べています。私は 私の人生に見切りをつけた。その後の数年 の私の生活の高量たる空白感は今思い出し てもゾっとせずにはいられない。年齢的に 最も発落としているはずの昭和21年から 23年の間というもの。私は最も死の近く にいた。 川端なりによって才能を見い出され、再び 分断に出るきっかけを得た三島ですがこれ からの生き方を決めね霧の中に立ち尽くし ていたのです。 昭和22年1月。友人で後に劇作家となる 社代誠一に連れられ三島は打財おの元を 尋ねました。三島は以前から打財嫌を貢言 しており、打財を進歩している社代は面白 半分どうしても2人を引き合わせてみ たかったのです。場所はとあるウナ屋の2 階。広間に大勢人が集まる中、その上座の 中央に座っていたのが打罪でした。当時の 若者たちから熱狂的な指示を得ていた打罪 ですが、三島は同計の花や巨行の春、 ラスデマネなどいくつかの打財作品を読ん でおり、出めされた自分の弱さを作品に 投映して世に爪跡を残そうとする打罪の 自識の強さが許せなかったのです。社代の 紹介を受け挨拶を済ませると三島は来る道 どうしてもそれだけは言おうと決めていた 一言を口にします。僕は打財さんの文学が 嫌いなんです。 打財は一瞬気をつかれたような表情をした 後、誰に言うともなく、そんなことを言っ たってこうしてきてるんだからやっぱり 好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなん だ。そう言って笑ったと言います。 よく昭和23年6月、打ザおむは愛人と共 に玉川上水に身を投げ信住。三島は打財の 死護も打財を貫き、その評価を変えること はありませんでした。昭和22年11月、 三島幸夫は東京大学法学部法律学科を卒業 、高等文試験に合格し、翌月大倉に入勝し ました。川端成のおかげで継続的に作品を 発表する機会は得ていたものの、三島は 収入を得るために読者に芸合した小説を 書きたくはありませんでした。またこの頃 平岡の経済状況は引迫していました。父 あずは戦前に脳水症を自施、いわゆる雨り でとある会社の社長を務めていたのですが 、終戦で会社は昨日停止状態になってい ました。こうした家の事情もあり、安定し た収入を得るべく父の移行に従って完了に なることを選択したのです。平日は夜9時 頃に帰宅し、その後睡眠時間を削って執筆 するという2速のわ地生活。元々あまり体 が丈夫ではない三島ですが、そうでもし ないと執筆のための時間が取れません。 そんな生活が半年ほど続いた昭和23年の ある夏の日、通勤途中の渋谷駅で三島は 目舞を起こし、ホームから転落してしまい ます。 幸い電車が来ていなかったため自力で ホームに入上がりこ泣きを得ましたが一歩 間違えれば命を落としかねないような事故 です。それでも三島は執筆をやめようとは しませんでした。そんな三島の情熱に とうとう父のあずさが折れました。大倉を 辞めていいその代わり日本一の小説家に なれ。その直後、大倉の三島のもに川デ 処防の編集者坂本和が書き下ろしの長編 小説を依頼師に訪ねてきました。三島は その依頼を受け9月に自を提出、大倉を やめて専業作家として生きていくという 決意を固め排水の陣を引いて執筆したのが 三島行を初期の傑作仮面の告白です。自ら の同性愛的思考、女性に対する性的な血管 を綴ったこの事伝的支障説は出版直後こそ あまり注目されなかったものの次第に 大きな反響及び分断からも高く評価され ました。自ら第2の処女作と少するこの 仮面の告白の完成と成功を持ってようやく 長いトンネルを抜けここから三島は昭和を 代表する文合としてスターダムを 駆け上がっていくのです。 昭和26年12月25日、三島は初の海外 旅行に出発します。横浜から サンフランシスコに入行し、アメリカ国内 を旅行した後、憧れの地ブラジルの リオデジャネイロへ。当時はまだGHの 占領にあり、自由旅行などできない時代 でしたが、朝日新聞から特別通信院という 資格を与えられ、4ヶ月の世界収油が実現 しました。その後ヨーロッパに向かいパリ 、ロンドン、アテネ、ローマを経て翌昭和 27年5月に帰国。針では詐欺に会い所持 金を全て取られ、トラベラーズチェックを
再発行するために足止めを食うという トラブルもありましたが、この旅行は三島 の文学と思想に大きな変化をもたらしまし た。アテネで触れた古典的ギリシャ文化の 様式日。私は自分の筆が踊るに任せよう。 私は今日ついにアクロポリスを見た。 パルテノンを見た。ゼウスの見合いを見た 。まるで子供のような用です。肉体の美し さを具限化したギリシャ彫国はまさに少年 時代に憧れた理想像そのものでした。 太陽との再開、そして和解 内面の暗さ繊細さを表現しようと 凝り固まっていた三島の心をアテネの 明るい太陽の光が溶かしてくれました。 ギリシャは私の自己嫌悪を孤独を癒し ニチェ流の健康への意思を呼び覚ました。 私はもうちょっとやそっとのことでは 傷つかない人間になったと思った。 晴れバレとした心で日本へ帰った。昭和 29年6月塩祭を観光古代ギリシャの小説 ダフネスとクエを下敷にし島の若い漁師と 有力者の娘の恋愛を書いたこの作品は出版 後わずか3ヶ月で70冊も半を重ね立ち大 ベストセラーになりました。三島曰何から 何まで自分の反対物を作ろうという気を 起こしたというこの塩祭は太陽の光に 満ち溢れた青春小説。秋に公開された 谷口吉地監督の映画も大ヒットし三島は 推しもれもせぬ分断の長時になっていまし た。しかし当の三島はそうした人々の熱狂 を日早やかに受け止めていました。千祭の 通俗的成功と通俗的な受け入れられ方は まさに私にヒ水を浴びせる結果となり、 その後ギリシャがだんだん覚めるきっかけ になった。昭和31年1月、雑誌身長で 金覚寺の連載を開始。昭和25年に起こっ た金格愚寺の定層草層林要件による放火 事件を題在にし、人間の心のうちに潜む 歪んだ美意識をキびやかな分隊で描き出し た三島文学の近事党とも言える作品です。 父親からこの世に金覚寺ほど美しいものは ないといく度も聞かされて育った主人公は 実際の金覚寺を目にして失望するも結局 その美しさに囚われ現実の世界で女性との 交渉を持とうとするたびに金覚寺の幻想を 見てしまいます。三島は美という固定観念 に追い詰められた主人公に戦後の急速な 変化を許容できない自身の内面を投映し ました。この年の7月に発表された経済 拍書にもはや戦後ではないという言葉が 引用され、日本は本格的に高度経済成長に 突入しようとしていました。戦争など まるでなかったかのように後景器に浮かれ ている多くの国民に戦前の価値観を忘れて しまって良いのかと問いかけたこの金覚寺 は発売当初から傑作であるとして高い評価 を受けました。またこの年は4月に近代 農学を観光11月に6名が上映されるなど 議局化三島幸夫としても大きな業績を残し ています。翌年1月金格寺で読み売り文学 省を受賞。33年6月には日本画家杉山安 の長女よ子と結婚し翌年東京太に ビクトリア町コロニアル様式の新居を構え ました。そして6月には長女の子が 誕生皇師共 に充実した日々を送る中で三島は次回作へ の意欲を高めていきました。しかしその先 に作家としての人生を揺がす最大の挫折が 待ち受けていようとは夢にも思ってい なかったのです。 昭和34年9月、三島は長編京子の家を 発表します。金格寺で私は個人を書いたの で、この京子の家では時代を描こうと思っ た。京子の家の主人公は人物ではなくて1 つの時代である。京子の家で描かれる時代 は朝鮮戦争の急戦でいわゆる朝鮮特が 終わり不景気に陥った時期から再び景気が 好転して高度経済成長の一方を踏み出した 時期にあたります。罰が不教をテ古に資本 を独占していく一方で青年たちはそうした 景気回復の流れとは無縁のままますます 惨目になっていく。経済が不教から 立ち上がると同時に人間が没落していく その通列な皮肉を描き切った渾心の一作 でしたが当時の評価は全くしいものでは ありませんでした。吉田県一や江藤純など これまで三島を高く評価していた秘評化 までもがこの作を失敗策だと断じたのです 。小説家三島幸夫教にとって初めての座説 。後年映画監督大島ナとの対談であれから 自分は狂ってしまったと語ったほど京都の 家の国は三島に大きな先進的打撃を与え ました。苦難はまだ続きます。昭和35年 11月、三島は洋子夫人を伴って2度目の 海外旅行に出発し、翌年1月に帰国したの ですが、その直後の3月、前年に出版した 歌の後の内容を巡り、元外務大臣の有田 八郎から訴訟を起こされてしまったのです 。昭和30年に東京栃事戦に出馬した有田 は実業家であった当時の妻が経営していた
両亭担保に政治資金を調達するも楽戦。 選挙活動で追った負債の返済を巡って夫婦 関係に不が生じ離婚に至りました。宴の後 が有田と別れた妻をモデルにしていること は明白でしたが、三島はすでに周知の事実 となっている事柄に着走を得て恋愛と政治 の矛盾と酷という抽象的な手題を描こうと したに過ぎず有田の主張は表現の自由を 妨げるものであるとして反論。両者の主張 は真こから対立し、第1の判決が出るまで 3年以上もの年月が費やされました。 この間10日の菊で読み売り文学議局賞を 受賞したり長男一郎が誕生したりと嬉しい 出来事もありましたが裁判の影響もあって か小説の売れきは伸び悩んでいました。 倍消金100万円の支払いと謝罪広告を 要求した有田川の訴えに東京地裁が出した 判決は三島出版元である身長者に賠償金 80万円の支払いを命じるというものでし た。三島は言論人全体、引い手は小説と いうものを手にする読者全体に対する別で あり、見逃しがい非理的な決だとして酵訴 しますが、翌年原国である有田が試した ため、遺族との間で和が成立して裁判は 集結しました。この裁判は我が国で初めて 表現の自由が争われた訴訟であったため、 その点にばかり注目が集まりましたが、 作品の評価は高く、海外でも文学省を受賞 しています。この頃、三島幸夫の名星は 国内にとまらず海外でも高い評価を得る ようになっていました。初めてノーベル 文学省の候補に名前があげられたのもこの 頃です。しかし、それと反比例するかの ように小説の売れきは落ちていました。 不評だった教庫の家は1ヶ月で15万部 売れ、商業的には大成功と言えるものでし た。しかし美しい星は2万部。そして出版 社に10万部売って見せるとゴしていた 開心策、午後の栄光ですら3万部しか売れ なかったのです。 島は以前から自分が40歳になるまでに 壮大なテーマを含んだ大腸編を書かなけれ ばならないと思っていました。 そんな集体性とも言える作品に構築しよう とした世界観、それはリン廻転生でした。 私はやたらに時間を追って続く年代期的な 長編には触していた。どこかで時代が ジャンプし、個別の時間が個別の物語を 形づり、しかも全体が大きな円環をなす ものが欲しかった。私は小説家になって 以来考え続けてきた世界解釈の小説を書き たかったのである。幸いにして私は日本人 であり、幸いにしてリン廻の思想は身近に あった。三島に捜索のインスピレーション を与えたのは平安時代後期に成立した浜松 中言物語でした。 夢と転生をモチーフにしたこの物語に着走 を得、昭和40年の9月北の海第1巻春野 行きの連載を開始します。またこの年の 11月には渋沢達彦の小説佐戸工爵の障害 を下敷にした議局佐戸公爵夫人を発表。 議局家としても優れた才能を持っていた 三島幸夫の最高決策とも言われる作品です 。当時の社会通年に反する成功医を行った 罪で同獄されたサド光爵の妻、ルネは ひたすら夫の出獄を待ち続け、20年もの 採決が流れました。ようやく夫は釈放され 、ルネに会いにやってきたのですが、その ことを知ったルネは修道員に入ると決意し 、夫に会うことすら拒絶。そこで舞台は幕 を閉じます。ルネ夫人にとって登告された 夫は手の届かない存在でした。それがいつ でも気軽に触れられるの人になってしまっ た途端彼女の夫に対する説は生場を失って しまったのです。この頃から三島は政治職 の強い行動を取り始めるようになります。 昭和41年4月自身が政作監督主演客美術 を務めた映画遊国が公開されました。 セリフが一切ないモノクロ映画で29分間 の短編であったにも関わらず、この規模の 映画としては記録的なヒット作になりまし た。原作は4年前に発表した自身の短編 小説。226事件の際に新婚であることを 理由に決に誘われなかった青年商校が事件 を起こした親友を氾濫軍として討伐し なければならないことに耐えきれず妻と自 する物語です。三島自身はこの遊国をもし 忙しい人が三島の小説の中から一ぺだけ 三島の良いところ悪いところ全てを凝縮し たエキスのような小説を読みたいと求め たら遊国の一ぺを読んでもらえれば良い。 そう言していました。小説遊国が発表され た昭和36年すなわち1961年は60年 安保の翌年。軍人精神と迫服を美化する ような描き方に嫌悪感を示す意見も多く ありましたが、映画も原作同様評価が 大きく分かれました。三島はセリフの一切 ない映画遊告を通して言葉を返さずに人間 の最も原子的な感動を呼び覚ますことが できるのか試みていたのです。映画遊国は
フランスのトール国際短編映画祭の激画 部門で惜しくもグランプリは逃したものの 時点第2位を受賞しました。昭和41年 11月英霊の声を発表。226事件の実行 犯として処刑された青年商校と太平洋戦争 で命を落とした特攻隊員の例が霊媒師の 青年にしその口を借りて昭和天皇の人間 宣言に対する行き通りを語るという筋書き です。などてスメロぎは人と成りたいし、 どうして天皇は人間になってしまわれたの か。20年の最月が経っても三島の心には 配戦児に感じた悲しみと喪失感がわかわり となって残っていました。経済成長 一著しい日本で配線の痛みを忘れ高景器に 浮かれる人々を見て三島は激しい失望と 思想官に自分を抑えることができなくなっ ていったのです。 昭和42年、三島は陸上自衛隊に体験入退 しました。く、富士、奈良し野の3箇所で 46日間に渡る訓練を終えた三島はその後 受けた雑誌のインタビューで体験入隊の 同機を聞かれますが、全くご推察に任せ ますと多くを語りませんでした。この体験 入体を気に自身の政治思想を言論活動だけ でなく行動によって示すようになります。 早稲田大学の学生たちから学生新聞への 気候を依頼されたことをきっかけに交流を 持つようになり、以後彼らを伴って自衛隊 への体験入を繰り返しました。そして昭和 43年10月5日、関節侵略に備えるため の民間防衛組織盾の会を結成。この盾の貝 という名前は万容州の先森の歌。今日より は帰り見なくて大きみの思の見立てと いで立つ我はによるものです。この2週間 後の10月17日川端Sなりのノーベル 文学省受賞が決定。日本人初の快去に国内 が湧く中、三島も翌日鎌倉の川端の自宅を 訪問し、主意を述べています。川端と並び いく度も候補に上がっていた三島ですが ノーベル文学省には興味がないと貢言して いました。極端に思われる政治思想や行動 が受賞を阻む一員になったという説もあり ますがそれでも三島にとってはノーベル 文学省より戦後社会のあり方を根本から 否定し一隻を投じることの方がはるかに 重要だったのです。昭和44年1月東大で 安田行動事件が起こり、その影響で翌月の 入試が中止になるなど学生運動はピークに 達していました。三島は4月に文化防衛論 を発表、文化概念としての天皇という独自 の概念を提唱します。そして5月には全教 からの依頼を受け、東京大学で行われた 討論会に参加しました。護衛もつけず、 たった1人ラフなポロシャツ姿で現れた 三島と全教との対決を見物するために会場 となった東大駒場キャンパスの900番 教室には約1000人の学生が集まりまし た。全教党は三島に質問を重ね論理の誇び を探し出そうと追求しますが、三島は彼ら の質問に丁寧に答えました。この日三島は 全教党の学生たちと戦いに来たのではなく 、共に戦うために説得しようと思っていた のです。しかし結局議論は平行戦で最後 まで噛み合うことはありませんでした。 若い世代と共に日本を変えるために手を 取り合いたい。三島の一度の望みは立たれ ます。それでも三島は全教の学生たちに 向かって自分と諸君とはイデオロギーは 違うが諸君の熱情は絶対に信じる。そう 言い残して会場を後にしました。6月三島 は勝太郎主演の映画一切りにさ磨の役で 出演します。共演した中田達也からあなた は作家なのにどうしてボディビルをして いるんですかと尋ねられ僕は死ぬ時に説服 するんだ。伏してさ、油みが出ると嫌 だろう。そう返答したと言います。すでに 三島の頭の中では自分がどのように最後を 迎えるのか具体的な構想が出来上がってい ました。しかし7月下旬頃から盾の会の メンバーでそ後が生じ、8月下旬に数の 会員が大会してしまうという事態が起こり ます。取り分け三島を落胆させたのは学生 庁であったも丸浩の大会でした。持ち丸を 全面的に信頼していた三島は何度も 引き止めようと説得しましたが、持丸の 決意は変わりませんでした。 さらに三島を失望させる事件が起こります 。10月11日の国際反戦例で左翼による 大規模なデモが予測されており、自衛隊が 出動した場合は盾の会も参入し、三島は そこで命を落とす覚悟を決めていたのです が、前持って配備されていた警察の起動体 によってデモは簡単に鎮圧されてしまった のです。またこの年は少年時代の三島を 高く評価し、終戦時昭和天皇を批判した軍 の場官を殺害の上自田 前命の没後25年にあたる年でした。三島 はハ田の全観光に力を尽くします。この時 協力を依頼したある作家への手紙に今では 小生は嘘も隠しもなく出田しの立派な最後
を羨む他になすべを知りませんと真中をし ています。分断とも次第に距離が生じて いきました。11月5日に行われた盾の会 結成1周年式店。三島は川端安成なりに 出席と食事の依頼をしていたのですが偽べ もなく断られてしまいました。孤独の中 三島は死に場所を探しねていました。昭和 45年2月北条の海第3巻赤月の寺を脱行 。計画では国際反戦例で自衛隊の治安出動 ととに体調として盾の会を率きいて参入 するはずでした。そのため未間で終わる はずだったこの作品を書き上げた後、三島 は言い知れぬ不快感を感じたと記してい ます。これは作品の出来を表しての言葉で はなく、またも日本のために命を落とす ことができず生き延びてしまったことへの 不快感です。そんな心境の中で7月法場の 海の最終天任水の連載を開始しました。 三島は法場の海が終わったらという言葉を 家族にも出版社にも金クにさせていました 。三島にとって法場の海の完結は世界の 終わりにほならなかったからです。 11月25日、身長者の担当編集者小島 近子は午前10時30分に三島の自宅を 訪れ、お手伝いの女性から現稿を受け取り ました。社に戻って確認するとそれは想定 していなかった最終回の現稿でした。 その頃三島は市ヶ谷の陸上自衛隊中屯地に いました。あらかじめアポイントメントを 取っていたため何ら警戒されることなく 同行していた盾の会のメンバー4人と共に 相関室に通されました金東武方面相関と 対面します。 そしてあかじめ決めていた手発通りにマ下 を拘速して人質にすると市ヶ谷中屯地の全 自衛隊員を集結させること彼らに三島の 演説を成長させることを要求しました。 三島は相関室前のバルコニーから憲法改正 の必要性、そのために今こそ自衛隊が 立ち上がらなければならないのだと声の 限りに叫びます。しかしその声は集まった 自衛隊員のヤジ、そして騒ぎを聞きつけた マスコミのヘリコプターの騒音に駆き消さ れ、全く届きませんでした。この時三島は マイクを使用していませんでした。日本 古来の精神をじ、あくまでも肉成に こだばったのです。 このままでは警察の突撃を受け身柄を拘速 されかねない。そう判断した三島は予定 よりも早く演説を切り上げバルコニーから 相関室に戻りました。 誰に言うともなくあれでは聞こえなかった な。そう呟いたと言います。そして増した 相関の前に立ち、相関には恨みはありませ ん。自衛隊を天皇にお返しするためです。 こうするより仕方なかったのですと 話しかけ制服のボタンを外しました。 三島と共に自決すると決めていた盾の会の 学生長森田正に君はやめろと何度も言って 左脇腹に担当を突き立て昭和45年11月 25日45歳の生涯を閉じました。 チルを伊う世にも人にも先けてチこそ花と 吹く作らし 三島幸夫が残した時です。事件後政治家や 主要隠しそして何人もの作家文芸評論家が 三島の取った行動を非民主的で日本の国際 的評価を下げかねない野蛮な行動だと批判 しました。確かにその批判は間違っている とは言えないでしょう。しかし三島の指針 のない純粋に国を思う心を理解する人間が いたこともまた事実です。その1人が他で もない事件当日に拘速されたマ下田金東武 方面相関でした。三島と森田2人の遺体を 前に涙を流す盾の会の隊員3人に向かって ましたはもっと泣きなさいと言い自分にも 冥服を祈らせてくれと星座して名目合唱し ました。 マ下は事件後被告たちを憎いという気持ち は当時からなかった。国を思い、自衛隊を 思い、あれほどのことをやった純粋な国を 思う心は個人としては買ってあげたい。 にくいという気持ちがないのは純粋な 気持ちを持っておられたからだと思うと 語っています。三島が命を立った昭和45 年。日本は空の光景機に湧き、大阪では アジア初となる万国博覧会が開催されまし た。三島は果たし得ていない約束と題して 私はほとんど生きたとは言えない。鼻を つまみながら通りすぎたのだ。私はこれ からの日本に対して希望をつぐことができ ない。このまま行ったら日本はなくなって しまうのではないかという感をひましに 深くする。そう書き残しています。そんな 焦りの中でまさに命をかけて三島は日本が 自分の足で立ち歩いていかなければなら ないと叫び続けたのです。自決の前年、 東京大学で行われた全教との討論会の最後 、1000人の学生たちの前で三島は次の ような言葉を残しました。言葉は言葉を 呼んで翼を持ってこの部屋の中を飛び回っ
たんです。この言葉がどっかにどんな風に 残るか知りませんが、その言葉をこ玉を とにかくここに残して私は去っていきます 。これは問題定期に過ぎない。 戦後ノーベル文学省に最も近いと言われた 文合三島行を小説のみならず議局評論と 三島が残した膨大な作品は今なお国内外で 多くの人々に読み継がれています。この 期待の文合の命をかけたといかけに私たち は自分の頭で考え、自分の言葉で作った 答えを持つことができているのでしょうか ? はい、お疲れ様でした。いかがでした でしょうか?三島幸夫の障害。もう本当に ね、最後の迎え方があのあまりにもね、 衝撃的すぎて、あのどうしてもね、そこに あの焦点が当たってしまう。彼が残した 文学的なね、作品よりも、ま、そこにね、 あの、焦点が当たって、いろんな議論さが されてしまうね、え、そういう作家かなっ ていう風に思うんですけれども、ま、多く の人たちがそうであったようにね、 やっぱり私もね、今回動画を作ってみてだ 、なんで三島幸夫はね、あんな風なあの、 行動を最後に取ったのかなっていうところ にね、あの、考えが至ってしまうんですよ ね。正直動画を作る前はそこを、ま、私が 運営しているね、このチャンネルの性質上 、あの、考察深掘りしなくてもいいんじゃ ないかなっていう風に思っていたんです けれども、ま、改めてね、三島幸夫の障害 作品と共に自分なりに整理していった時に いや、結構ね、これはあの三島幸夫のね、 え、作ってきた作品と大きな影響があるん じゃないかなっていう風に思っていて、え 、なので、ま、私のね、あの、個人的な もちろんあの考えの範囲でもあるんです けれども、ま、ちょっとねそこをあの 深掘りして考えていきたいなっていう風に 今日はね、あえてそんな風に思っています 。で、今回私はね、三島の生涯をあの、 誕生からずっとあの、辿どっていったわけ なんですけど、ものすごくね、あの、才能 に恵まれて、それが比較的若い時期から 評価されて、ま、多少の苦労はあったん ですけれども、め中からね、もう十分な、 大作家としての評価を世界的評価を受けて いますし、あの、残したね、鉱石、 輝かしい、もう本当にあの、傑作と言わ れる作品をいくつも残しているわけなん ですけど、確かにね、絶望を感じるあの シーンというか場面っていうのは、え、 あった。いくつもあったなっていう風に 三島の障害をね、調べてみて思いました。 ま、それは例えば妹がね、あの、三島が すごく可愛がっていた妹が終国に亡くなっ てしまったこと。そしてあと失恋ですよね 。あの、仮面の告白にね、描かれている 非常に有名な三島は、え、終戦の前後に かけて、え、自分の友達の妹と交際してい たんですけれども、あの、ちょっとね、 結婚の話とかも持ち上がってたみたいなん ですが、三島がね、覚悟を決められなくっ て孫にその女性が他の男性と結婚して しまったっていうことがあったんですよ。 で、ま、その有名な失恋ともう1つね、 見まって、あの、20代後半から30代の 前半結婚するね、三島33歳で結婚してる んですけど、結婚する前の年まで、あの、 あるね、女性と4年ぐらい交際していた みたいなんです。で、三島はその女性の ことをすごく愛していて、彼女との結婚を 望んでいたんだけれども、ま、彼女の方が ね、え、三島の元を去ってしまったって いう、ま、失恋をね、あの、大きな失恋を 経験していて、三島にね、結構近い、え、 人がね、ま、あの、失恋は三島にとっては ものすごくあの、精神的にね、え、大きな ショックだったと思うっていう風に、ま、 言っているんですよ。そういう風な失恋を 経験していたりだとか、そして今日子の家 っていうね、あの長編作品のま、後にね、 あのすぐ後に、え、発表された作品がある んですけれども、この作品がね、告評され てしまう。で、この、あの、今庫の家の 失敗がね、三島にとって本当に大きな挫折 であり、うん、失望であり、え、そういう ね、あの、を受けたっていうことをね、 公年映画監督の大島ナの対談で語っている んですよ。ま、そういうね、作家としての 大きな挫折があって、で、やっぱりね、 ノーベル賞を、ま、取れなかったという こと。これもね、やっぱり大きいんですか ね。あの、カーバスなりがね、え、ノベル 賞を撮った時にね、なんか自分がね、 ノベル賞を取れたのはあの翻訳者のおかげ 。そして三島幸夫君がまだ若かったから そのおかげでね、ま、年を取ってる自分に 回ってきたんだろうみたいなことをあの コメントしていますけれどもね、蒲田が
ロベル賞を撮った後にもう多くの人がね、 次は三島さんですねっていう風にね、あの 、ま、それは言いますよね。本当にね、5 回ぐらいね、候補に上がってるんですよ、 三島ってね。そう言われて三島はいやもう 自分は取れないよと。次に日本人が取る ならそれは大江だって言ってたって言うん ですよ。どういう思いでね、この発言をし たのかなって思いますよね。三島自身はね 、自分はノーベル賞なんかには興味がない んだっていうことをメディアに向けて言っ てたりしてたんですけど、あの三島の周り にいた人たちのあの証言1つじゃなくって 複数のね、人たちの口からやっぱり三島が ノーベル賞が取れなくって残念に思って たっていうことがね、あの言われてるので それはやっぱりね取りたかったんだろう なって思います。私がね1つ具体的にあの 覚えているすごい印象的な話はね、宮明 さん。え、これもね、あの、有名な話なん ですけど、え、三島幸夫と美さんっていう のは非常に進行が深かった、そういうあの 歌手として駆け出しの頃のあの宮明博さん を、え、三島が非常にあの高く評価してで 、そういうね、ま、売れない時期から目を かけていたっていうことになるのかな。 さんがね、その後、え、芸能活動で耐制さ れて、で、舞台をね、見に行ったりだとか ね、コンサートを聞きに行ったりだとか、 そういう風にね、非常に進行が深かった みたいなんですけど、宮さんがね、え、 ある時ね、ま、三島幸夫がノーベル賞を 取れなくってすごくこう落ち込んでた時が あって、で、そこでね、あの、あ、あんな 賞なんて別にいいじゃないですかみたいな 、あの、葉っぱかけるつもりでね、ま、 そんな、あの、そんな賞がもらえなかった からって言って、なんかこっちから願い下 だぐらい言ってりなさいよみたいなね、え 、ことをね、言ったみたいなんですよね。 そうすると三島幸夫がね、あの、宮さんの ことじっと見つめてね、どうして君は そんなに強いんだっていう風にね、言っ たっていうね、あの、そのあの、三島の つぶやきが忘れられないみたいな話だった と思うんですけど、あ、やっぱりね、うん 、そういう思いがあったんだろうなって いう風には思いました。うん。この三島 幸夫っていう人間作家を考える時にね、私 がすごく思うのが本当にね、打ザムと似て いるなって思うんですよ。三島自身もね、 あの、これもね、本編でお話ししました けども、非常に打材来を貢言していて、 結構なね、悪口言ってるんですよね。 ちょっとご紹介しましょうか。結構これ 面白くって、えっとね、私が打財お様の 文学に対して抱いている剣は一種猛烈な ものだ。第1私はこの人の顔が嫌いだ。第 2にこの人の田舎者のハから趣味が嫌いだ 。第3にこの人が自分に適しない役を演じ たのが嫌いだ。女と信住する小説家はもう 少し厳縮な風貌をしていなければならない 。い、ちょっとひどいですよね。で、 こんな風にも言ってますよ。打財の持って いた性格的血管は少なくともその半分が 霊水摩擦や機械体操や規則的な生活で直さ れるはずだった。生活で解決すべきことに 芸術を患らしてはならないのだ。い坂さ 逆説を老すると治りたがらない病人などに は本当の病人の資格がない。いや、今なら ね、炎上しちゃいそうですけれども、要法 はね、三島は打財おむの弱さがすごくね、 もう嫌悪、生理的嫌悪があったんだと思い ます。というのもともすれば自分もそう なってしまいそうだから実際ね、三島幸夫 は打罪おむに対する嫌悪感をね、謹慎的な あの憎しみであるっていうことを自分でも 認めているんですよ。うん。打財の中に 自分に似た部分を見い出していたあの三島 は私は自殺する人間が嫌いだっていう風に はっきり言っているんですよね。そしてね 、もう1つね、やっぱり私がこの打財と 三島の共通点として思うのがね、うん。な 、何て言うのかな。なんかこの2人には なんか死ぬことっていうのを非常に美しい ものと捉えている死に対するね、憧れ みたいなものが根本的にあったんじゃない かなって思うんですよね。いや、私自身は ね、全くあの、分かるなとかもないんです よ。だからあくまでも想像なんですけど、 2人の生涯をうん、考察する動画を作って 、ま、文学作品とかを読んだ上でね、なん かね、そういう本能的にというのかな。 うん。そういう思いがある人だったんじゃ ないかなと思います。ただ三島の場合はね 、それが自分の人生で起こった挫折を 乗り越えられずに個人的な理由で弱さの ために自ら死を選ぶっていうのがもう本当 に彼の美学として許せなかったんだろう なって思います。ちょっとね、ここで非常
にこれもね、あの興味深い三島幸夫のね、 インタビュー記事のね、ご紹介をしたいな と思うんですけれども、三島はですね、 実血の1週間ぐらい前本当に直前にね、 あの、インタビューを受けてるんですよ。 そのインタビューを申し込んだ相手は 古林孝志という文芸評論家です。この人は ね、三島の2歳年下で先中はね、海軍にい た人なんです。で、戦後ね、マルクス主義 とかに系統して、ま、思想的には三島と あの完全に愛入れない立場の人だったん ですけれども、その人がね、三島に、ま、 え、インタビュー申し込んで三島がそれを 受けた。で、ここでね、話してる内容が 非常に私はうん、考えさせる内容だなって いう風に思ったんですよね。え、古林は ですね、自分と三島はほぼ同年代に生まれ て同じようなね、戦争体験をしてで、ま、 修を迎えたと。で、その後ね、あの、 大きな大きな巨奪を感じたっていう風に 古林は言っていますけれども、その時に なって初めて国家とは何か、労働とは何 かっていうことを考えた。で、え、 マルクス主義に出会ってね、第2の事故を 形成していったわけなんだけれども、三島 さんにはね、その第2の事故を終戦後ね、 え、形成していったその奇跡が全く感じ られないっていう風に言うんですね。三島 はね、それを言われてないって、そのね、 自分の自己形成は156歳で住んでしまっ た。少なくとも19歳までに自分のね、中 で、え、自分はこういう風な人間なんだっ ていう事故をね、確立してしまったって いう風に言っているんですよ。で、それを 受けて古林がね、うん、三島さんは戦後ね 、その事故を必死に抑え込もうとしてきた けれども、最近の三島さんはその抑制が 効かなくなっているっていう感じがするっ ていう指摘をしていて、で、三島はね、 おっしゃる通りだって古林の指摘を認めて いるんです。戦後ね、仮面の告白を書いて 、ま、塩さというね、作品で新しい自分を ね、こう見出そうって思ったんだけども、 ま、結局ね、無理だった。三島は自分の中 に理性で投があるんだっていうことをね、 はっきり認めているんですよ。ここからは ね、私の見解なんですけれども、まずね、 三島幸夫という人はベースとしてね、死に 対しての美意識みたいなものを持っていた んですよね。普通の人って、ま、死ぬ時は 見苦しく ありたくないとかね。死ぬ時もできるだけ 美しくとかはあると思うんですけれども、 そうじゃなくってなんか死に向かってこう 積極的な美を見い出していたって言ったら いいのかな。うん。これもね、仮面の告白 に書かれていることですけれども、なんか 若くして劇的な死を遂げるっていうことに 対するね、美意識が憧れがすごく強かった んじゃないかなと思うんですね。で、これ はあの有名なせい、セバスチャンの、え、 肖像が出ったりだとか、あとね、なんか 三島幸夫ってね、これも仮面の告白に書い てあることなんですけれども、ジャンヌ ダルクをね、ずっと男だと思ってて、で、 ジャンヌダルクにすごくあの、憧れてたと 。子供の頃ね、幼少期にね。で、お手伝い の女性からもっちゃんとそれはね、男の人 じゃなくって女の人なんですよって言われ てすごくがっかりしたっていう描写がある んですよ、仮面の告白にね。なので三島の 中でね、男たるもの何か信念を持ってこう 劇的な死を遂げるのが男の死なんだみたい なそういう感覚があったんじゃないかなと 思うんですよ。でそれが直接の実血の原因 っていうわけじゃないんですけれどもその 美意識があってでそこにいろんな人生の 左折を経験していきますよね。で、 もちろん感女性のものすごく強い人です から、ま、他の人からすればね、ま、長い 人生そんなこともあるよって感じなんです けど、ま、1つ1つをそういう風に 受け止めることができない。ま、その点に 関してはね、私は結構悪田川とかもそう いうところがあったんじゃないかなって いう風に思うんですけどもね。で、それを こう蓄積させていってしまって、で、人生 に対してうん。生きることに対して何か あのモチベーションを保てなくなったって いう感じがあのあったんじゃないかなと 思うんです。ただですよここで自らそう いう個人的事情で死を選んでしまうとま ダザ様と一緒になってしまうわけじゃない ですか。それはね、三島の最も嫌をする ところだった。繰り返しになりますけど、 三島にとって、えー、自ら死をね、選ぶっ ていうことは、それは自分のこう弱さに 敗北した結果じゃなくって、何かね、国の ためであったりだとか信念のためになんか 死ななければならないっていう思いが強く
強くあったんじゃないかなと思うんです。 さっきね、あの、あげた三島の挫折って 全部戦後に起こってることなんですよね。 だからね、なんか戦争に負けてなんか何も かも違うな。もちろんね、三島が気づいた 業績っていうのも全てそのほとんどが戦後 のものなんですけど、どれだけ名声を得て もね、何か違う、何か違うってなった時に 戦前の方が良かったんだ、正しかったんだ みたいな感じになって、で、三島のあの 極めて優れた言語能力によって構築された 戦前のね、自分の理想像っていうのが三島 が1番弱ってる時にその三島の思想が1番 しっくり来ちゃったっていうのがあるん じゃないかなっていう風に思うんです。だ からね、ま、ちょっと言い方あれなんです けれども、三島幸夫にはね、うん、死の ための大義名文が必要だったんですよね。 じゃあ、三島があの主張していた最後のね 、盾の会の体調としての政治的理念がね、 あれが自血の建前なのかっていうと、絶対 にそうではないんです。そうではなくって 三島は本当にそう思ってたんだと思う。 自分のそういうね、弱い部分を一切 吹き飛ばして三島の理想とするね、え、 人間になれるための思想を若い時の自分が すでに確立していて、で、それにガチって はまっちゃったっていう感じが私はすごく するんです。自分の心の奥底にある曖昧こ とした不安ね、絶望そういったものを全部 ね、追い隠してくれる上書きしてくれる 強い自分にあの変えてくれるね。そういう 自分が作った思想っていうものに三島幸夫 は囚われてしまってああいう選択を選ん じゃったんじゃないかなって。そしてね、 三島幸夫自身も100%そのために自分は 命を捨てるんだっていう風に思っていれば 三球自身の中ではそれがあの正しいことに なるわけですからどっかでそんな自分 にま気づいていて当然のことながらねこそ 私は盾の会の学生のえ隊員たちにもね初め はみんなで三島幸夫と一緒に自するって いう風なことだったんですけれどもああの 、それ絶対するなっていう風に言い聞かせ て、で、森田正かだけは結果論として、 あの、三島と共に自しましたけれども、 森田正かにも、あの、何度も何度もね、 本当に自分が、え、自する直前まで森田 正かにはね、君をやめろっていう風に何度 もね、あの、言っていたっていうことから もね、うん、私はそうだったんじゃないか なっていう風に思っています。そしてね、 圧迫っていう自血の方法、昔の言い方で 言うと迫服ですよね。そんな形で命を立っ たのも何かね、形式的に自分の死っていう ものは劇的なものでなければならないって いうね、そういう思いもあったのではない かなっていう風な気がしています。私がね 、初めて三島の作品読んだのは高校生の時 のね、遊国だったんですよ。なんでね、 遊国にしたのか、もう全然読んだきっかけ を思い出せないんですけど、本当に衝撃的 でしたね。この遊国という作品は三島自身 がね、え、もし忙しい人が三島ゆきのね、 作品の中で一ぺだけ何か小説をって言うん だったら良くも悪くも自分という人間をね 、分かってもらえる小説がこの遊国だって いう風に言っているんです。ま、それを 何かで知って読んだんですかね。もうね、 とにかくね、衝撃的でうん。ただ私はあれ は政治的ななんか思想があるというよりは なんか三島の死に対する美意識みたいな ものが現れた作品だなっていう風に思い ました。そう、遊国ね、あの、三島が 忙しい人にもし自分の作品を1冊読めと 言うならって言ってるように短編なんです よ。結構短く短いです。短編の中でもあの ね、短編にね、これだけのものを入れられ るっていうのは うん、すごいなってやっぱり思います。 初めてね、遊国を読んだ時の衝撃って やっぱ読書体験として人生の中で忘れられ ない思いがありますね。あの、普段ね、私 、え、予備高校士としてね、え、受験生の 高校生、高卒生のあの若い、え、人たちと 接する機会多いんですけど、遊国だけはね 、いや、読んでみてねってやっぱ言えない ですよね。読んだ子がいたら語り合いたい けど。語り合いたいけどうん。本当にそう いう意味でもね、あの、印象的な作品って 感じです。あとね、やっぱり三島で言うと 金覚寺がね、1番有名だし、それをあのお 読みになった方もたくさんいらっしゃる でしょうし、私の生徒に関して言うとね、 あのこれも動画作ってって思い出したん ですけど、金格時をあの読もうとしたんだ けども挫折しちゃったっていうことをね、 何人かの生徒から言われたことがあるん です。で、私はね、ああ、金格時ちょっと 難しいもんねみたいな感じで、あの、
スルーしちゃってたんですけどもね、よく 考えたら高校生で金覚自読もうとしたって いうのすごいなと思って。うん。それを なんかああ、難しいもんねっていう風に スルーしちゃった自分が今なんかすごく 後悔してる。うん。なので自分の生徒たち にもいつか見てもらいたいなっていう つもりでね、来年は金格寺の解説動画をね 、作りたいなっていう風に思っています。 受験が終わった後ね、うん、なんかそう いう文学作品とか読みたいなって思った時 にね、私の生徒にもあの、見てもらえたら なっていう風に今思っていますね。ただ、 ま、確かに金覚寺はちょっとね、あの、 読み進めるのがしんどいなっていう気持ち も正直分かります。だからそれで行くとね 、これ自分の読書体験としても結構印象的 だったっていう意味で、あの、塩祭ですね 。え、これも非常に有名な三島がね、自分 を改革しようと思って、ま、全く今までの 自分とは違う反対のあのものを書こうって いうことで書いた塩祭。私結構ね、塩さ 読んだのは三島の作品の中でもあのだいぶ 最後の方というかね、遊国読んで金格寺 読んで仮面の告白読んで法場の海読んで私 結構ドん引きしちゃったんですよね。法場 の海に。で、で、ま、この彩祭をね、その 後に読んで、で、ど、何がもう三島の作品 に対する潜入感がめちゃくちゃあります から。え、ここで裏切られるのとかね。あ 、裏切られないんだ。え、ここで襲われる ?襲われないんだ。ここで嫌けが刺す。 いや、嫌け刺さないんだみたいな。で、 ああ、もうこれで死んじゃうんだ。ええ、 死なないんだってなってなんかね、あの、 これごめんなさい。さ、読んでない方から したら何のことってなると思うんですけど 、え、え、あ、え、こうあるのっていう風 になんか逆の意味でなってしまってうん。 それがね、あの、印象的だったんです けれども、あの、私はね、でも塩祭大好き です。うん。このね、筋書きをこういう風 に仕上げられた三島幸きってやっぱり すごいなって、これはこれで思いますし、 塩祭に関してはなんかね、いろんな作家が 書いたって見てみたいなって思いました。 ストーリーをこのままにしてどんな風に 作家がね、例えば谷崎であったりだとか誰 かな 川バスなりでもいいですしなんかそういう ま、三島とね、え、極力時代が重なって いるいろんな作家たちに塩祭の筋書きで うん、あの小説をね、なんか作ってみて 欲しいなってそういう風にね思えるあす だけじゃないね良さっていうのがあるん ですよね。この祭には祭はね、えっと三島 が278歳、20代の時に書かれてるん ですけれども、商業的にもすごく売れた みたいで、あの、これでね、一気にこう 作家としての、ま、経済的基盤を確立する ことができてっていうね、そういう風な 意味でも、あの、三島のあの、代表的な 成功作でなんか映画とかもね、あの、作ら れてで、何本か映画化されてるんですよ。 違うバージョンでね。で、あの、山口桃え さんと三浦智友和さんで主人公の男女を 演じて、そういう詳細があったっていうの も、あの、あったらしくて、私は見たこと がないんですけれども、うちの母がね、 あの、山口桃えさんの大ファンで、うちに エッセがあったんですよ、山口桃えさんが 書いた。で、私とかさん好きなんですよね 。で、それで、あの、そのエの中に山口 桃えさんが三浦かずさんのことを初めて 異性として、男性として意識したのが塩祭 の撮影中だったっていうのが書いてあった んですよね。それもね、なんかすごくあの 印象的に覚えていますね。塩祭はあの かなり読みやすいと思います。そしてです ね、あと1冊変わりとしてね、ま、これも ちょっとご紹介しておこうかなと思うん ですけれども、あの命より売りますって いうね、え、作品。これはあのね、三島の ま、作品の中でもかなり移植と言われて いる作品で没後しばらくなんか全然あの 忘れられてるじゃないけれども、ま、三島 の作品としては忘れられていてで、え、 だいぶね、立ってからなんかリバイバル ヒットをした作品だったんですよ。うん。 で、これはね、あの、あ、三島幸夫って こんな作品も書くんだなっていうね、着走 もあすも筋書きもね。うん。面白いんです よね。ま、どういう作品かって言うと、ま 、ある男がいて、で、あ、自殺願望がある んですよね。で、自殺をするんだけれども 、ま、失敗しちゃったと。で、あ、もう これはね、自分にあの、死ぬためのね、 何かあの、同機がないとダメなんだって いうことで自分の命を売りますって、 ライフ法制っていう風にね、看板を掲げて
、で、新聞広告を出すんですよ。で、 あなたのね、あの、ご要望に合わせて私の 命を売りますとかって言って、で、 いろんな人たちがこう、訪ねてきて、あの 、訪ねてくる。で、その依頼に応じて、ま 、命をこう捨てようとするんだけれども、 なかなか思うようにことが運ばないんです よね。ちょっとそういうギャグ要素がある んですけど、でもこれってなんかすごく 国形に書いているんですけれども、三島の ね、盤年と重ね合わせてみると全然笑え ないんですよね。初めて読んだ時はね、あ 、なんか三島幸夫もこんな作品書くんだ みたいな感じだったんですけど、これもね 、今回もう1回読み返してみたんですよ。 で、三島のね、盤年と重ね合わせてみると ものすごくね、あの、胸が痛くなりました 。これっていつの作品かな?えっとですね 、ちょっとね、文庫に書いてないんで後で 調べてあのテロップ出しておきますけど、 そんなあの若い時の作品じゃないんですよ 。裁判年かどうか分からないんですけど、 結構あの40代にはなってたと思います。 かなりね、うん、今読むとこう深く思う ところがありましたね。ま、読みやすい ですし、あの、三島のね、あの、全然ご 想像されてる三島とは違う一面が読め るっていう点でこの命売りますっていうの も、あの、お勧めしたいと思います。 そしてですね、あの、その他ですね、三島 の本じゃないんですけど、三島行きの関連 書籍としておすすめの本がね、2冊あって ね、まず1冊がこのですね、1冊目が別殺 太陽。でかいんですよ。でっかいんですよ 。文庫と比べるとこんな感じになっちゃう んですけど、あのこれはですね、三島教の 障害とそのね、タイミングで発表した作品 っていうのがあの1つの流れになって書か れてあって、だからこれは三島幸夫のあの 障害や作品を知る入門書としてもすごくお すめですし、あのかなりね、三島2の方、 三島幸きのファンの方にとってもね、 めちゃくちゃ興味深い写真だとか、あの 資料がたくさんあるんですよ。三島雪のね 、あの通知表とかね。これもね、あの まさに三島行き、三島のこんな一面って 書いてありますけど、三島すごくね、猫が 好きなんですよね。で、そのね、なんか猫 友達みたいなのがいたみたいで、あの なんかうちの猫にお魚くれてありがとう みたいなね、お手紙とか結構この手紙も 面白かったしうん。子供にね、え、海外 から子供に出した絵が書きだとか、あの、 あとね、そう、えっと、さっき私が言った 、あの、最後のね、え、古林孝志との インタビュー、全部じゃないんですけれど も、一部が収録されてい、収録されてい たりだとかね、そういう三島のあの義曲を ね、え、戯曲を舞化したその舞台の衣装だ とか写真だとかうん。すごくね、これは 三島2の人も満足させられる1冊かなって いう風に思うので、ま、ちょっとね、 大きくてで、価格も高いんですけれども、 ま、でもね、フルカラーでこれだけのあの ものがあって、今単鉱分でも2000円 ぐらいしますから、えっと、2400円な んですけどもね。でもこれは私は価格に 見合ったお値段かなっていう風に思ってい ます。そしてですね、もう1冊なんです けど、その最後のね、もう1冊はこれもね 、めちゃくちゃおすすめ。本当面白かった です。これですね、え、彼女たちの三島 行きっていう、え、あ、私ちょっとピント 忘れてた。さっきからピント合ってないか もしれない。このね、彼女たちの三島幸夫 っていうあの本です。これは中央降論。 うん。中音後論から出てる、え、本なん ですけれども、これめちゃくちゃ面白かっ たです。なんかね、三島幸夫ってね、 YouTubeで皆さん検索してみて ください。もうほとんど三島幸夫のことを 語ってるのって男性なんですよ。男性がね 、いっぱい集まって見まう。あ、だ、こう だっていう風に議論をかわしてるんです けど、あの女性がね、え、三島雪を語 るっていうあのコンテンツがほぼないん ですね。書籍でも三島幸夫の本って男性が 書いてる本がすごく多いんですよね。で、 これはね、あの、その中央コ路の多分雑誌 のインタビューを主に変算したものじゃ ないかなって思うんですけれども、三島 ってね、対談もめちゃくちゃ面白いんです よ、対談集も。で、この対談している中に は、えっと、岸田京子さん、高嶺秀さんね 、え、それから小雪さん、そういったね。 ま、私は岸下京子さんはあのトンネルズと 一緒になんか番組出てらして、そういう 面白いおばあちゃん、あとムーミンの声と かもね、あって、岸田き子さんはあのそう いう、え、ご活躍されていた記憶が、ま、
子供の頃ですけどあるんですけど、高秀子 さんとかね、あと腰吹雪さんっていうのは もう私が生まれた頃には引退されていたり 、お亡くなりになっていたりっていう感じ なので、あの、名前しか知らないっていう 感じだったんですけどね、こう対談が すごく面白いです。本当にね。あ、この 時代のあの女性の芸能人っていうのかな? そういうあの方達たってめちゃくちゃ パワフル。パワフルっていう言い方は変か な。活達っていうかね。なんか結構ね、 漬け付けうん。あえてこういう言い方し ますけど結構漬けもの言ってるんですよ。 いや、面白いなと思って。決してね、女性 向けの本っていう感じはしないです。彼女 たちのっていうことで女性が三島幸夫を 語ったり、三島幸夫と語ったり、三島幸夫 を書いたりしていますけれども、あの本当 に面白くて、あの森まりとね、三島幸夫の 往復書館とかも収録されてるんです。森ま りっていうのは大外の娘ですねとか1番 良かったのはあの私エンチふみ子のねあの ツイート文がすごく良かったです。ここに 入ってるんですけどエチふみ子もねうん。 三島のことはこんな風に高く買ってたの かって思ってうん。胸がね、暑くなりまし たね。エチみ子の声素晴らしかったです。 あとそうそうなんか宇さんともね、対談し ていて三島よりもうっちオの方がはるかに 年は上なんですよね。で、そこでねなんか あなたみたいな若い人と私みたいな年寄り じゃはま違うだろうけどとかって言って 言ってね。で、あの、三島がね、あの、 そうだみたいな、石原慎太郎っていうね、 若いやついるでしょみたいな、あの、石原 慎太郎のこれ読みましたみたいな。読んだ 方がいいですよ。太陽の季節なんかでも ずっといいですからとかって言っててね。 面白い。とにかく面白いから、あの、本当 にこの彼女たちの、え、三島雪をこれね、 あの、おすすめとして紹介させていただき たいと思います。本当にね、あの、三島 幸夫って結局のところ魅力的なんですよね 。うん。これはえっと昔からね、私は三島 の作品は好きでしたけれども、なんか ちょっとね、なんか怖いって思うところが あったんですよね。やっぱりそれは最後の あの、ああいう決断をあの、したからっ ていうのもあったと思うんですけど、ただ 今回調べてみて三島雪夫の用の部分、 明るい部分っていうのもたくさんあの、 知ることができましたしね。例えばうん。 あの、これもね、私は今回動画を作るに あたって初めて見たんですけれども、 全教闘東大全教とのね、あの、討論会ね、 あれがなんか映像として残っていて、で、 何年か前にドキュメンタリー映画になって たらしいんですよね。で、私知らなくて、 で、今回初めて見たんですけど、その討論 会でもね、自分をね、こうロパしてやろ うって思っている1000人の学生を前に して単心で乗り込むんですよ。で、そこで ね、何回も大爆笑をかっさらってるんです 。これはね、比べるのももう恐れ多い どころの話じゃないですけど、ま、人前で 話をする仕事をしているね、私からして みればこれはとんでもなくすごいことなん ですよね。あの、決してなんか長では なくって、あの、爆笑なんですよ。ああ いうね、あの、いい笑いなんですよね。 あの、映像を見てもらって同業者に聞い たら全員ね、すごいなって言うと思う。 そういう自信ありますね。うん。で、三島 はね、あの、討論会でも、あの、さっきも 言ったように学生たちは三島をなんとか ロパして恥を欠かしてやろう。だから収支 ちょっと挙げ足を取るじゃないけど議論が 観念的にねなね、議論に収支してるなって 私は思ったんですけど、三島はね、あの、 全然ね、学生たちをロパしてやろうと思っ てないんですよ。なんとかこう説得してで 、え、たった1人でもね、あの、自分の あの、提唱しているね、理念に共感して くれる人がいるんじゃないかっていうよう なね。ま、うん。そうですね。やっぱりね 、そこに著作に逃げなかったっていうのは 私はすごいなって思っています。あの時代 の三島幸夫教だったら自分が書きたいもの を全然書いて出版して発表する機会って いくらでもあったと思うんですけど やっぱり著作物だと自分の大ファンか アンチにしか読まれないと思うんですよね 。だけれども、あの場には、ま、限られた 人数ではあったけれども、ただのこう矢馬 根性というかね、あの怖い物満たさという かそういうね感じで集まってきた学生たち もいたわけじゃないですか。そこを見越し て直接ね、こう対話をしようって思 うん。乗り込んできた三島幸夫っていうの はやっぱり私はかなりね、言っている思想
そのものが全部私が理解できたわけでは ないしあのじゃ理解できたとして共感 できるかっていうとそうでもないと思うん ですけどそういうところはねかすごく魅力 のあるな人だったな言論人として非常にな 人だったなっていう風に思います。なんか ね、あの、ドナルドキンっていう、ま、 非常に有名なうん、文学評論家というかね 、日本に飢して、え、た人でもあります けれども、彼もね、三島のあの作品を翻訳 したりして、三島との進仰もあの、深く あったみたいなんですけれどもね、え、 ドナルドキインがね、普通の日本人って 自分の英語があの、相手に伝わらないって なるとだんだん声が小さくなっていっ ちゃう。三島はね、結構英語も堪能なん ですよ。でもやっぱりね、ネイティブじゃ ないから伝わらない部分も出てくるじゃ ないですか。で、三島幸夫はね、自分の 英語が伝わらないってなるとどんどん声が でかくなっていく、大きくなっていく、 ケウな日本人だったっていう風な言葉を 残していて、そのね、対話を諦めない姿勢 っていうのは私は本当にね、あの、三島の 尊敬すべきうん、ところなんじゃないか なっていう風にも思っています。なんか ドナルドキはね、三島がなくなるじゃない 、なくなったじゃないですか。で、おも すごく盛大に取り行われたんですけども、 やっぱり事件が事件だから三島のお式に 行くと、ま、ちょっとそういう関連じゃ ないけども、色々やこしいことになりそう だからっていうことで、あの、3列をね、 あの、差し控える文人が多かったみたいな んです。で、ドナルドキンもそういう知人 からのアドバイスでね、あの、行かない方 がいいと思うよって言われて行かなかった らしいんですね。でもそれをね、ずっとね 、後悔してるっていう風に言ってましたね 。書いてましたね。うん。やっぱりね、 いろんな人が三島が亡くなった後も三島の あの事件、三島が言ってたことっていうの をずっと考えてたんじゃないかなと思い ます。そのドキュメンタリー映画にはね、 三島と対決した全教の人たちも出てたん ですよ。で、ま、今ね、もうご存明の方も いらっしゃるからうん。ものすごくね、 なんか三島の本を書いた人たちもいたりし て、みんながみんなね、三島幸夫をって いう人の言った言葉をね、自分の頭の中で 、心の中でずっと残り続けたその言葉を 考えてきたんだなっていう風に思っていて 、ま、それがね、うん、三島がね、生誕 100年で没後45年、え、45年、55 年かすみません。55年ですよね。で、え 、そうなっていく中でやっぱり行動の全て が賛成できるものではないかもしれない けれども、ま、三島の言葉を残していき たいなっていう風な思いは私としても すごくありました。で、いつもはね、こう いう話はあの、進んではしないんですけど 、ま、そういう私があの三島のね、言って たことの中ですごくは発っとしたことが あって、それはちょっと政治的な話になっ てしまうんですけれども、ま、三島はね、 憲法改正の必要を訴えて、え、あの、事件 を起こしたわけなんですが、その憲法改正 の問題っていうのは、ま、ずっと議論され ていることですよね。で、私はあの大学は ね、実は文学部ではなくって、法学部の 政治学科で、で、ゼミのね、あの教授が 担当教官の先生が日米安全保障がご専門 だったんですよ。だから、ま、憲法改正 っていうものについては大学時代は、ま、 結構ね、考えるね、機会とか時間は多かっ たと思うんです。もちろんあの見識が足り てないところ不勉強の部分もたくさんある と思うんですけれども、私自身は憲法改正 をしなければならないという風に思って るっていうよりは今のあの実情がね憲法 球条に遭遇わない状況じゃないかとは思っ てるんです。だからなんかうん、極端な 言い方をするとちょっと意見状態なんじゃ ないかなっていう風には思っていて、で、 特にね、やっぱり第2項がうん、今のまま じゃちょっとあの意見状態になってるん じゃないのっていう風に思っているんです よね。で、もちろん憲法救助の理念に関し ては、あの、必要な素晴らしい理念だと 思っていて、第1項は、ま、そのままにし て、え、そして第2項に、うん、検討する 余地があるんじゃないかなみたいな考え方 を持っているんですね、私としてはね。で 、ま、その意見に対してもちろんね、あの 、反論もあると思いますよ。ただ私自身は 今そんな風に、ま、ずっとそんな風に思っ ていて、で、三島っていうのはあの第1項 も含めても救助を削除しろみたいなかなり 極端な会見論者なんです。だから、ま、 自分とはそういう成績スタンスはあの違う
んだろうなっていう風に思っていたんです けれども、今回ね動画を作るにあたって ちょっと詳しくあの調べてみたんですよ。 あの三島の会見論っていうのをね。そし たら三島はね、その1個はそのままにして 2項だけを削除するっていうのはどうなん ですかていう風に聞かれてそれに対しては 実はねや賛成だっていう風に言ってるん です。でももし第1項だけを残すんだっ たら、この第1項っていうのは、え、日本 国民は正義と秩序を貴重とする国際平和を 誠実に及し、国権の発動とたる戦争と武力 による威嚇または武力の行使は国際紛争を 解決する手段としては永久にこれを放棄 する。え、このね、え、第1項憲法第9条 第1項は全ての国の憲法にあの入れられて ないと意味がないじゃないかっていう風に 言うんですよ。日本だけこれ売ってても 仕方なくって全ての国がこれを掲げるん だったらこの第一条っていうのはあの憲法 に入れる意味はすごくあるっていう風に 言っててそれは私確かにそうだなって めっちゃ思ったんですよね。今回ね本当に 本質的なことですよね。だからね、三島が 言いたいこととしてはね、日本は戦争に 負けました。で、え、日本が悪かったです 。そういう風にね、なんかだから戦争戦う 権利とかはもうね、あの、バツとしてお 返しします。取り上げられちゃったGHに 押つけられた憲法としてこれをね、あの、 甘じてこの状態を強授するのは違うんじゃ ないかっていう風に、ま、要は言って るっていうことだとことなんですよね。で 、そこはね、うん。ま、これもちょっと かなりセンシティブな話になってきちゃい ましたけれども、私はあの、なんか もちろんあくまでそういう自分が、え、 これまで歴史の勉強としてやってきた範囲 でこの日本が取った行動に良くない部分は あったと思うんですけど、なんかこれは 本当に心情的なことなんですけどね。この 時代の日本はそれは間違ってたのかもしれ ないけれども心情的にね生きるね戦後に 生まれてこの平和な時代をね教授させて もらっている自分がねなんかあの時の日本 は間違ってたよねみたいなことをねうん なんかあの時代に本当に大変な思いをして こう命を落として亡くなっていかれた方も いるわけじゃないですか。で、そのね、 方たちの後に生まれた、超平和な時代に 生まれた自分がね、なんかそんなことを 言いたくないなっていうのはあるんですよ 。だからそこのこと、それはね、私は ちょっと三島とは時代が違うんだろうなっ ていう風に思うんですけど、1つ思うのは 、あの、やっぱりね、今国際情勢ってそう いうね、三島が生きていた時代とも大きく 変わっていて、今後もどうなるか分から ないじゃないですか。で、そんな中でね、 いや、もうめんどくさいからわかんないし 、怖いから買えない方がいいよ。買えない 方がもう変えなくて鉄もんだったら買え ない方がいいよっていうね、なんか逃げと か無関心とかであの憲法問題を考えないっ ていうのは良くないなっていうのはすごく 思いました。買えないなら買えないでいい んだけれども、やっぱり買えないことの 信念みたいなものをなんか怖いから買え ないじゃなくって、買えなくて、あの、 いいものは変えないでいこうっていうね、 え、感じじゃなくって、いや、日本はもう これで行きますっていう、買えないって いう信念を持って買えずにいることって いうのが大事なんじゃないかなっていう風 にすごく思っていて、それでもやっぱり私 はね、あの、九条のね、1個はあえてそれ は確かに三島の言うようにね、全ての国が ね、それを理念として提唱しないとダメ じゃんっていうのはそうなんですけど、で もじゃあ日本も言わないじゃなくてそこを あえて日本が言っていく意味っていうのは あの憲法にね入れてる意味っていうのは あるんじゃないかなっていう風に思って いるからなんかそういう風にね私も やっぱりまこの動画のチャンネルの趣旨と は違うからあのそういうことを発信して いくチャンネルではないっていうのは もちろんありますけれどもでもやっぱりね なんかこういう発言をすると叩かれるん じゃないかっていう思いだけではやっぱり ね、ダメなのかなっていう風に思いました 。今日はね、あの、三島の話なので、ま、 こういう風なお話をしているわけなんです けどもね、やっぱりあのそういう場に話題 になった時に自分の意見をちゃんと持っ てることっていうのはうん、国民としては 私はすごく大事なことなんじゃないかなっ ていう風には思っていますね。ですから、 あくまでもその位置、え、国民としてね、 自分が持っている権利としてね、いつか
国民投票っていうね、え、ことになった 場合はちゃんとあの、その権利を使って 国民投票には絶対に行こうと思っています し、もちろんね、確かにね、私が考えたと 、あの、何か日本が変わるわけではないん ですけれども、でもそれをね、いや、何も 変わんないしっていう風に放棄してしま うっていうのはやっぱり個人的にはうん、 違うんじゃないかなってっていう風には 思っています。なんかね、最後はちょっと 謎に熱くなってしまいましたけれども、ま 、たまにはね、あの、いいかなって今日は ね、あの、三島の多分ね、うん、三島が 痛かったことっていうのもそうじゃないか なと思うんですよね。あの、もっとあの、 ちゃんと自分の頭で考えて、自分の言葉で 語ってあの日本っていう国をね、良くして いって欲しいっていう思いは三島すごく あったんじゃないかなって思うので、うん 。ま、そういうね、三島に対する リスペクトという意味で、ま、ちょっと 今日はお伝えさせて、え、お話ししちゃい ました。ま、でも本当ね、三島雪の作品 って政治的思想をどけて考えても純粋にね 、あの、素晴らしいと思いますし、面白い と思いますし、まだまだご紹介したい作品 もいっぱいあって、で、三島雪関連のね、 なんか動画も、あ、こういう動画、こう いう食眼点で新しい動画作ってみたいなっ て思い浮かぶアイデアもたくさんあったの で、うん。それもね、え、1つ1つ形にし ていけたらいいなって思っています。まず はさっきも言ったけど、あの、金格寺のね 、解説動画を来年上にはね、あげたいなっ ていう風に、え、やっぱここでね、宣言し ておくことって私にとってはすごい大事な んですよね。あの、有限実行っていう形で 、あの、ちゃんとね、作っていきたいなっ ていう風に思っているので、また、あの、 ご興味があったら、あの、動画公開の際に はご覧いただけると嬉しいです。動画をね 、ご覧いただいている方の中には、あの、 存命中の三島行きをご存知の方もたくさん いらっしゃると思うんですね。私のね、母 が高校生の時にあの事件があったって言っ てました。母ね、全然文学症状でも何でも ないんですよ。ま、全然そういう読書家と かでもないんですけど、やっぱりね、一 高校生としても三島の事件ってものすごく インパクトが強かったみたいで、あの、何 度も何度もあの、語ってましたね。だから ね、そういう生前の三島をご存知な方、 リアルタイムの三島を知っている方ね、 三島とのどういう作品がのとの出会いが あって、どんな印象を受けたかっていうね 、あの、ご経験持ちの方たくさん いらっしゃると思うので、是非ね、それを 知らない私にコメントで教えていただける と嬉しいなって思います。はい、という わけで今日は皆さんから多数リクエストを いいておりました三島雪の障害についてお 話をさせていただきました。本当にね、 なんか背負っていた重を、あの、ちょっと ね、下ろすことができてほっとしているん ですけれども、あの、実はね、今年もう1 本動画をあげたいなって思ってるんですよ ね。というのもですね、この2025年私 にとってね、めちゃくちゃ読書革命の年 だったんです。そのね、お話をね、是非さ せていただきたいなっていうのもあって、 で、で、今年最後の動画ですから、今年1 年をね、総括する意味でね、あの、私が 今年読んだ本の中でのベスト10っていう のをね、発表しながら、ま、そのお話をね 、え、させていただきたいなって思ってる んですよ。ちょっとね、間に合うのかなっ ていう心配もあって、今、あの、半忙機な んでね、私ね。え、なので、ま、自信が ないんですけど、ま、最悪ね、大晦かとか になっちゃうかもしれないんですけど、ま 、それでもね、あの、皆さんの大掃除の、 え、BGMとして、もうこれ本当ね、 聞き流して大丈夫ですから、あの、聞いて いただけたらなっていう風に、あの、思っ ているし、あと、あの、お正月にね、何か 本を読もうってなった時のね、え、参考に 、え、してもらえればなっていう気持ちも あって、そんな動画を公開したいなって いう風に思っています。そちらもね、もし 間に合ったら、え、是非ご覧いただけると 嬉しいです。それではですね、今日も本当 に最後までご視聴ありがとうございました 。え、寒い毎日が続きますので、皆さん風 など引かれないようにご試合ください。 また次回の動画でお会いしましょう。